消せない感情、ある。
東京、練馬のアパートで私が一人暮らししていた頃の体験です。
ふと気づくと、強い力で顔に何かが押し付けられていました。擦り傷ができるのではというほど強く、顔の横が痛かったので目が覚めたのです。布団の角で押さえつけられて相手が見えず、何をどうしたか全く覚えていないのですが急に全身全霊が反応し、私はそれを直ぐに跳ね除けたのです。そして玄関から逃げていく人の気配を背に窓を開けて外に向かって「誰か助けてくださーい!助けて!助けてええええ!」と何度も全力で叫び続けました。しかし外は夜明けの住宅街、静けさが広がるばかりで誰も応えてくれませんでした・・・ショックに圧倒されつつ玄関の鍵を閉め、私はしばらく震えて泣きました。
しばらくはショックで正常に思考はできていなかったけれど、服も脱がされず強姦されていなかったのを幸いと思いました。昨日の晩に鍵を閉め忘れてた自分の失敗にも気づきました。しかし、時間が経つにつれて部屋に押し入った男に対する殺意に似た強い怒りが湧きました。二度とこんな目に遭うものかという決心と恨みから、すぐ最寄りの警察署に行きました。被害届を出すためでした。とにかくじっとしてはいられなかったのです。

担当の警官は髪がアフロで私服だったので刑事と思われました。私は正気を装っていましたが実際の記憶は曖昧で混乱していました。ショックと怒りの震えが収まらない中で勇気を振り絞って喋っている私を前に、その刑事は、まるで下書きがあるかのように淡々と私の話す状況を鉛筆で書いていきました。私は原稿用紙に1字づつ埋められるその書き文字を見ながら感情を抑えるので精一杯でした。指紋の採取もあったかもしれませんがよく覚えていません。そのくらい、私の体験の大きさに比べて処理が簡単だったのです。警察は記録をとっただけで何もしてくれない・・という記憶だけは残ったのでした。
そして・・・その翌日か翌々日。仕事中、会社に電話がありました。知らない男の声で「また鍵を開けておいてね・・・」と。心臓が止まるかと思うほど怖くなりました。ストーカーされていたのか!と。
その数ヶ月後、混雑した電車で座っていた時にふと目を上げたその瞬間にゾッとして全身が凍りつきました。私の目の前に、警察で調書をとった男が立っていたのです。頭が真っ白になり、ショックで恐ろしくて次の駅で降り逃げました。あの調書の書き方、それが完璧な楷書だったこと、ほとんど用意されていたかのように書き直しもなかったことに、あの時は違和感を覚えても、疑問を持つほどの冷静さはなかったのです。
そうして後から考えると家に押し入ったのもあの警察の人間だったと思うのです。調書をとったあの男がストーカーの張本人だった。確かではないけれど、そう考えると一連のことに合点がいきました。
実は家に押し入られる2年くらい前、そのアパートに引っ越した直後に、私は近所の交番に通報したていたのです。アパートの目の前が公園になっていたのですが、ベランダから覗いた時、木の下に立っている男が見えました。トレンチコートのような服装で髪はもしゃもしゃで平日の昼間に長時間同じところに立ち続けていました。はじめは人を待っているのだと思っていたのですが、ほとんどそこから動かないように見えました。初めての一人暮らしで心細かったたせいもあり、アパートを観察していると感じました。不安を取り除くために「公園に不審者な男がいる」と交番に電話したのです。そして間も無く自転車の警官がその男に近づいたのが見えました。そして確認したところ不審者ではなかったとの連絡もあり、男の姿を二度と見ることはありませんでした。
そんな記憶も薄れた頃に起きた事件だったので、警察とその男を結びつけて考えていなかったのです。しかし私の電話番号だけではなく部屋まで調べられていたこと、警察で調書を取った刑事がアフロ頭で、その刑事が満員の電車なのに私の目の前に立っていたのは偶然ではあり得ません。私はあの体験で生まれて初めて殺意を持ちました。それから10年くらいはあの男だけは苦しんで死んでほしいと心底思っていました。
消したくても消えない記憶はあるものです。それでいいと思います。
襲われた恐怖は消えましたが、赦しがたい気持ちは消えません。消せない感情もあります。
感情はなくなり記憶も薄れましたが、それでも許すことはしません。決意しています。
被害に遭った過去の私もひっくるめて許さない。今の私は全く違う人間になったからこそ。
だから、こうして書き残しました。